佐世保殺人事件と、老人介護と、二酸化炭素濃度の上昇。

ふと私は考えてみました。佐世保女子高生殺人事件は偶然というか、何かの弾みで起こったのか、それとも必然性を持って起こるべくした出来事なのでしょうか。犯人の女子が持つ異常性は、今やハイエナの如きマスコミのかっこうの飯の種というか、おいしい餌となって、週刊誌をテレビ番組を賑わせています。憎むべき犯人やその罪はもちろんなのですが、どうしてその犯罪を防ぐことができなかったのか。その当たりを過去や生い立ちの遡って、マスコミはあれやこれやと追求しています。私たちは、こんな犯罪が二度と繰り返されることがないように願うだけですが、マスコミの思惑はちょっと違うようですね。そしていつも思うのですが、被害者というか、お亡くなりになった方のことは、もう皆さんの心にはないのでしょうか。15歳のまだまだ長い人生を楽しめるはずが、いきなり永遠の闇に落とされて、今は誰も思い出してくれません。それに反して、マスコミは興味本位で生きている方の犯人女子の行状をやんやと書き立てているだけです。よく雑誌を買い求める私ですが、佐世保事件関連の記事が皆無になるまで雑誌は買うまいと決めているのです。これ以上、マスコミを増長させるわけにはいきませんからね。ところで、先日のクイズ番組で、老々介護率の毎年上昇、さらには大気中の二酸化炭素濃度の毎年上昇というのがありました。いまやお年寄りはその息子や娘たちと暮らすことなく、また昔のような同じ屋根の下で3世代が暮らしているような大家族はほとんどありません。だから、やがて大人になる子供たちの育ち方も、ココロの内面というか、感性という要素では淡泊になっているのかもしれません。今の日本では、原発は一基も稼働していないようです。その代わり、化石燃料の石油や石炭をどんどん燃やして、膨大な二酸化炭素を大気中に放出していますよね。なので、二酸化炭素濃度が上昇しているわけなのです。これによる地球温暖化や異常気象の出現は皆さんもご存知の通りでしょう。これを抑制する有効な手だてはありません。環境がそんな状態だから、人の心が歪んでくるのは必然かもしれません。人の心の育み方、自然に営みを大事にすること、人と人とのふれあいを豊かにすること、こんなことの欠落が、人間の心を病み、もしくは闇に引きずり込むのかもしれません。現代の社会には、そんな要素が身近に溢れているのかもしれません。犯罪が少しでも減ることを願わずにはいられません。犯罪を飯の種にするのはマスコミだけですから。