葬儀をしなかった藤圭子さん、なんだか潔い。

藤圭子さんがお亡くなりになってから私が気になっていたのは、娘さんのヒカルさんの動向でした。でも、やっぱりヒカルさんはお母さんの元に来られたのですね。それを聞いて私は、なんだかホッとしました。それで、藤圭子さんの遺言通りに葬儀は行われなかった。どうしてやらないの?なんて訝る人がほとんどでしょうね。人は生きていてこそ、実感があるものです。死んでしまってから、いくら壮大な葬式をしてもらっても、いくら多くの人が参列しても、亡くなった当人には届かないものです。それだったら、生前に直接顔を出していろいろ話しをすれば良かったんじゃないかってね。だから、葬儀や追悼は、残された生きている身内や付き合いのあった人間たちが、生前にこうしてやれば良かったと後悔の思いを、自分勝手に表現しているだけではないでしょうか。だから、葬儀がないって、むしろかっこいいと思います。清々しささえあるのではないでしょうか。お墓にしても同じですね。そういえば、ちょっと前のお盆で、先祖代々のお墓を守る知り合いは、たった数分仏壇の前にお経をあげるだけで、数万円の香料を受け取って、あたふたと次の檀家さんの元に移動するお坊さんを、なんだかなあ。むなしいねえ、と不信感で嘆いていました。そりゃ〜、もうお墓が途絶えたところもあると聞きます。私たちだって仮にお墓を建てても、子供やその子々孫々まで必ず家系が続くとは限らないですよね。余計な負担を子供たちに掛けないように私たちは考えなくてはならないときかもしれませんねえ。葬儀やお墓って、所詮は空しいものなんでしょうね。